ポスト・モダンの条件
知・社会・言語ゲーム
ジャン=フランソワ・リオタール
このあいだ、大学のゼミでリオタールの『ポスト・モダンの条件』という本について発表した。ここで、自分の勉強のため、その発表の要約を載せる。これはこのブログで、私の初めての日本語のコメントになる。私、ポップカルチャーについて研究しているので、そういう研究の範囲で、「ポスト・モダン」という用語が結構使われている。でも、ポスト・モダンというのは何?現在の時代はもう近代の範囲に属しない?それか、先週大学で、Aminul IslamというBangladeshの社会学者がおしゃった通り、現在は《ポスト・ポスト・モダン》といえる?そして、どのようにこの概念がポップカルチャーの研究に役に立つか?そういうことを考えるのは有機があると思う。私、全然詳しくないだけど、ちょっとリオタールの本について幾つかの事を書きたいと思う。最後、自分が勘違いした事があるかもしれない。
まず、リオタールは『ポスト・モダンの条件』のはじめに次のように述べた。
「この研究が対象とするのは、高度に発展した先進社会における知の現在の状況である。われわれはそれを《ポスト・モダン》と呼ぶことにした。」(7)
当時(1979)、その用語はすでにアメリカの社会学者や批判家に用いられていた。リオタールにとって、それは十九世紀末からはじまって、科学などのゲーム規則の変更に連れて「一連の変化を経た後の文化の状態」(7)を指す用語である。そしてこの変化は「物語の危機」と関係がある。
科学は真実を探求するので自ら正当化をしなければならない。すなわち自分のステータスを正当化するために、哲学という言説が必要とする。その言説は大きい物語に(例えば「《精神》の弁証法、意味の解釈学、理性的人間あるいは労働者としての主体の解放、富の発展」などに)依拠する。
「そうした物語に準拠する科学を、われわれは《モダン》と呼ぶことにする。」(8)
正当化の問題を分析するためにリオタールが用いた方法は「言語事象に、そして言語事象のなかではその言語行為の側面に力点を置く」(27)。ここでリオタールはウィトゲンシュタインを参考にして、これを《言語ゲーム》と呼ぶことにする。簡単に言えば、その言語ゲームはその言語行為の様々な規則であるといえる。
例えば、ある真理であるはず言表は科学の規則すなわち、科学のゲーム規則の基で正当化されているので真理であるとは言える。しかしそのコンセンサスは《啓蒙》という大きい物語に準拠している。真理だけではなく、歴史、社会、諸制度の有効性などの正当化がその大きい物語の範囲に基づく。ここでリオタールは
「《ポスト・モダン》とは、まずなによりも、こうしたメタ物語に対する不信感だ」(9)
と述べる。
ここで、なぜ《メタ物語》と呼ぶかというと、その大きい物語を基にして、正当化というほか物語が構築されるからである。
この不信感は科学の進歩において正当化のメタ物語の衰退、すなわち「形而上としての哲学の危機、そしてそれに依存していた大学制度の危機」(9)から生じる。ところが、科学の他に、様々な言語ゲームがある。すなわち、知の異なった様々な扱う規則がある。しかしポスト・モダンの展望で、こうした一連の知のあり方に一貫性を与えられる大きい物語が不足する。その故に先進社会には知の正当化はもはやこうした物語に基づいておらず、それより「システムの遂行性つまり効率を最適にすること」(10)に置かれている。
その結果、哲学的に、科学的に、そして政治的に、真理という概念は重要性を失ったといえるだろう。
本の流れで、リオタールは大きな物語の喪失の文脈では、言語ゲーム、正当性という課題に焦点を合わせる。最後に、大雑把に言えば、ポスト・モダンという知識の状況に次の観念を主張する。
大きい物語は(例えば《啓蒙》)正当性を失い、科学というひとつの言語ゲームに正当性を与える能力を失った。その故にポスト・モダンでは《大きな物語》の代わりに、《小さな物語》に正当性を依拠する。つまりポスト・モダンは様々な異なった性質の言語ゲームの存在を認め、唯一あるいは普遍的の真実ではなく、不完全な真理を表現する一時的な言説に正当性を委ねる。
ここで次の質問が挙げられる。そして、この質問はポップカルチャーの領域に大切だと思う。
大きい物語は本当に正当性を失ったのか。人々の大きい物語への欲望はなくなりましたか。《モダン》という物語の崩壊が認められるとしても、他の大きい物語の生まれが全くないわけか。
多分、ポップカルチャーの範囲で見られる現象は、こういう《大きい物語を作り戻す》という問題と関わっていると思う。自分の意見として、人々の生活に意味を与えられる大きい物語の不足の文脈で、マス・メディアが新しい大きい物語を構築しようとしている。その新しい大きい物語の基に、確かに知識の正当性が生じない。生じるのは、日常生活に必要な意味であると思う。どうだろう。

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